大阪の化学のはじまり

講演:大阪大学名誉教授 芝 哲夫 先生
平成14年2月5日 創立20周年記念講演より

大阪の地には、江戸時代から自然科学が芽生えていた。明和8年(1771)に大阪に来た麻田剛立によって、天体観測を基礎とした天文学が発達していた。それを支える技術屋集団として、たとえば天満には播磨屋清兵衛を中心とするレンズ作りの硝子細工技術者が集まっていた。
橋本宗吉は熊取で日本最初の空中電気を取る実験を行っている。
阿弥陀池の近くでは、伏屋素狄が世界に先駆けて腎臓濾過説を解剖実験によって提出していた。
幕末に近ずくと、北浜に緒方洪庵が適塾を開いて、西洋医学導入の中心地として、日本全国から若者たちを引きつけ、そこから明治の日本の近代化を推進する多くの逸材が育っていった。

明治2年(1869)、明治新政府の最初の文化事業として、ここ大阪の大手前にオランダ人化学者K.W.ハラタマを教頭とする舎密局(せいみきょく)が開設された。舎密は、Chemie(化学)の音訳で、舎密局とは化学の学校という意味である。外国人指導による日本最初の化学の専門学校と言える。
この舎密局でハラタマは毎日熱心に講義を行って、当時最新の西欧化学を教授した。その講義録は、「舎密局開講之説」、「理化新説」などとして刊行された。
当時の舎密局

この舎密局から日本の化学者たちが育っていった。ハラタマの片腕の助教であった松本_太郎は後にドイツのベルリン大学に留学して日本の有機化学の開拓者になることが約束されていたが、惜しくも29歳の若さで逝去した。
また、助手であった明石博高は、後に京都舎密局を開設して、京都における化学工業の基礎を開いた。島津製作所もこの京都舎密局から派生している。
同じく助手であった岸本一郎は東京に出て、大蔵省印刷局で日本最初の紙幣印刷に貢献した。

舎密局の姉妹校として、その南方、現在の国立大阪病院の地に創設されていた大阪医学校の学生であった高峰譲吉は、舎密局の講義を聴くうちに、医学から化学に志望を転向して化学研究者の道を歩み、その実験を担当したのは、宝塚の先の名塩出身の上中啓三であった。

舎密局のもう一人の助手の村橋次郎は、大阪の衛生試験所で日本人として最初の所長となった人である。
この村橋次郎に京都から出てきて化学を学んだ池田菊苗という青年がいた。池田菊苗は後に東大教授になり、昆布のうま味成分としてグルタミン酸ナトリウムを発見した。味の素の始まりである。

ハラタマは明治4年(1871)には任期が切れてオランダへ帰国し、その後任にドイツ人H.リッテルが赴任した。しかし、明治6年(1873)には、明治政府の文教中央集権の方針により、舎密局は化学専門学校としての幕を閉じ、一般高等教育学校の第一番中学校となった。これが後に京都に移って、旧制第三高等学校となり、現在の京都大学につながっている。
大阪医学校も、明治6年に一旦閉校となったが、直ちに大阪府公立医学校となって復活し、その後身が昭和6年(1931)に大阪帝国大学医学部になり、同時に理学部が併設されて、現在の大阪大学が誕生した。
本校に設置されたハラタマ胸像

大阪の近代化学、そして日本の化学の生みの親、ハラタマ博士の業績を顕著にするために、一昨年の日蘭交流
400周年の機会に、その胸像が川合敏久氏の手で制作されて、舎密局跡に近い馬場町西方の楠の下に設置された。

舎密局に近い地にある日本分析化学専門学校に籍を置く諸君は、この伝統ある大阪の化学の歴史を学んで、将来の心の糧と自信としていただきたい。

芝 哲夫 先生 略歴

大阪帝国大学理学部化学科卒業、大阪大学大学院理学研究科修了、米国NIH客員研究員、大阪大学理学部教授、日本化学会副会長、日本学術会議会員、国際ペプチド化学シンポジウム組織委員長、大阪大学名誉教授

主な役職
日本ペプチド学会名誉会員、日本糖質学会名誉会員、サントリー生物有機科学研究所名誉理事、武田科学振興財団評議員 ほか